テクストの整理

構造が物語を創る

「本ブログの指針」について

以下に引用するのは「本ブログの指針」と題された、あるブログの指針を表明するテクストである。

本ブログは主に僕が更新していくことを基本原則*1とする。ここにおける代名詞「僕」は容易に「私」と交換可能で、さらに「俺」や「拙者」等も場合によっては置換しうる存在である。要するに「僕」という言葉自体が何らかの意味を保有するところの記号ではないということが、やはり基本原理*2とされる。ソシュールらが開拓してきた現代の言語学によれば、シニフィアン(能記)、シニフィエ(所記)の区別がまず前提にあった――ちなみに、ある「シニフィアン」と「シニフィエ」の組を「シーニュ(記号)」とよぶ。ここではその恣意性に着目して云々という話はしないし*3、する能力もない。詳しくは文献にあたって独自に学んでほしい内容だ――のだが、ダッシュ内*4と同様の内容を二度は書かない。

「引用」という行為からまず想起される印象として、引用したテクストの他者性、そして次に引用したテクストの非現在性、荒い言葉で言い換えれば過去性というものがある。これらはともにテクストが、作者、すなわちここでの「僕」には属していない ことを端的に言い表す。ここで問題となるのは「所属」とはどういう概念で、どのように扱うべきものなのかということである。したがってまず簡単な定義を与えることから始めよう。すなわち「所属」するとは主体の名のもとに上書き可能な記憶であるということとする*5。たとえば、このテクストは僕に所属する。なぜならこれをキーボードに入力し、ディスプレイが文字を出力している「今」、僕はデリートキーやバックスペースキーを好きなように押せ、その上に新たな言葉を塗り重ねることが出来るからだ。試しにやってみよう*6。今ここに犬という言葉を書いている。それを「犬」と上書きしよう。すると読者の目には、私がはじめに「猫」と書いた箇所に「犬」が書かれていることを、「この」文によって理解するだろう*7。そして読者はここに「猫」が書かれてい(た/る)ことを記憶として持たない。諸君がもつのは、「犬」という文字による記憶それだけである。これが「所有」するという意味だ。そして今僕が引用したテクストは、上書き不可能なものとして僕が所有するところにないものである。*8

*1:若干重複表現か?

*2:ここでも重複している気がする。

*3:本稿はこのブログの指針を明らかにすることが目的なのだから。

*4:厳密にはダッシュ内における丸括弧。

*5:ここでの定義はあまりにも素朴であることは確かだ。この点についてはロラン・バルトの「作者の死」の概念について各自参照されたい。

*6:引用者註:読者が体感する時間の流れは必ずしも作者のそれとは一致しないのは至極当然である。

*7:引用者駐:自己言及的な主張であるが、肯定的内容であるため、真偽の判断は不可能であるものの、パラドックスに陥ってはいない。

*8:厳密にいえば、「所有」において、自己の他者化が起きるケース、すなわち時間的に諸現象が推移する場合は、作者がテクストを所有しているかどうかの判断は容易ではない。